前回は、読点が少ない文への苦言。「今日は天気が良かったので私は洗濯を3回して疲れました。」のような。
僕だったら「今日は天気が良かったので、私は洗濯を3回して、疲れました。」にするかな(「私は」は要らないと思う)。
今回は、読点が多すぎる文について。
読点が少ない文に比べると、見る機会はとても少ないが、たまにネットで遭遇する。
「今日は、天気が、良かったので、私は、洗濯を、3回、して、疲れました。」などと、文節ごとに読点を入れているような文。
これもまた読みづらい。読むペース、いわば「リズムを乱される」感じで、文全体の内容が頭に入りにくい。
ちなみに、前回の読点が少ない文は、どこで区切ればいいのかが分かりにくく、「リズムがつかめない」といったところか。多いのと少ないのと、どっちが分かりづらいかと聞かれれば、どっちもどっち。
どうして読点が多くなってしまうのか。想像しにくいが、ここも区切らないと分かりづらいのではと心配になる、強迫観念的なものにとらわれているのだろうか。
ネットには、読点が多い文を書くのは、高齢者あるいは年齢が高い人だという指摘もある。「おじさん構文」などと言われて。たしかに若い人ではないような感じはするが、そう断言もできないかもしれない。仮にそれが正しいとして、歳を取ると読点が多くなるのか、あるいは昔の教育の影響なのか。ちゃんとした研究テーマになりそう。誰か研究してみたら?
ところで、プロの作家の中には、今も昔も、特徴的な句読点を使う人はちらほらいるそうだ。
一方で、明治や昭和初期といった作家の文章でも、今の感覚でもさほど不自然ではない句読点の人もたくさんいる。要は人それぞれなのでしょう。
比較的最近の作家で、読点が多い人がいた。以下、批判的に取り上げさせてもらって申し訳ないのだが、故・西村京太郎氏(1930~2022)である。
僕は、ドラマはいくつか見たことがあった【2016年3月30日の記事】が、原作である小説は、最近まで読んだことがなかった。昨年、入院した時に初めて読んだのだが、読点の多さに驚いた。
以下、「西村京太郎自選集(3) 空白の時刻表 電子書籍版(2016年、徳間文庫)」の「おおぞら3号殺人事件」からの引用。初出は1983年とのこと。
まずは、一文全体から読点のみを抜いたものを示す。どこに読点を打ちますか?
「長万部を出たところで花井が売店で駅弁とお茶を買ってきてくれた。」
「カーテンを閉めて横になり眼を閉じると今まで聞こえなかった単調な車輪の音が急に聞こえ出した。」
「十両編成の前面には「おおぞら」の文字と北海道のシンボルである丹頂鶴が二羽描かれたヘッドマークがついていた。」
「飛行機に北海道への客をとられているとはいっても夏休みに入っているせいか若い観光客でほぼ満員の列車から吐き出された乗客は青函連絡船に乗るために長いホームを小走りにかけて行く。」
僕だったら、
「長万部を出たところで、花井が売店で駅弁とお茶を買ってきてくれた。」
「カーテンを閉めて横になり眼を閉じると、今まで聞こえなかった単調な車輪の音が、急に聞こえ出した。」
「十両編成の前面には、「おおぞら」の文字と、北海道のシンボルである丹頂鶴が二羽描かれた、ヘッドマークがついていた。」
「飛行機に北海道への客をとられているとはいっても、夏休みに入っているせいか、若い観光客でほぼ満員の列車から吐き出された乗客は、青函連絡船に乗るために長いホームを小走りにかけて行く。」
とする。
マイクロソフトとGoogleのAIに相談しても、おおむね同じ回答。
ところが、西村氏は、
「長万部を出たところで、花井が、売店で、駅弁と、お茶を買ってきてくれた。」
「カーテンを閉めて、横になり、眼を閉じると、今まで聞こえなかった単調な車輪の音が、急に、聞こえ出した。」
「十両編成の前面には、「おおぞら」の文字と、北海道のシンボルである丹頂鶴が、二羽描かれたヘッドマークがついていた。」
「飛行機に、北海道への客をとられているとはいっても、夏休みに入っているせいか、若い観光客で、ほぼ満員の列車から吐き出された乗客は、青函連絡船に乗るために、長いホームを小走りにかけて行く。」
としている。
読点が多い。「駅弁と、お茶」「急に、聞こえ出した」などは明らかに過剰だと思う。読んでいて引っかかり、なんだか束縛されているようで苦しくなりそう。
話がそれて、かつ僭越ながら、「飛行機に~」の文は、文自体がぎこちないというか、スマートさに欠ける。「観光客」と「乗客」と客が重なってしまっている。ここは2つの文に分けたほうがいいのでは… 「北海道への客を飛行機に取られているとはいっても、夏休みに入っているせいか、列車は若い観光客でほぼ満員である。列車から吐き出された乗客は、(以下同)」などと。
すべての文節ごとに読点を入れているわけでもない。「今まで聞こえなかった、単調な車輪の音が」「二羽、描かれた」としてもよさそうだが、そこはなし。
1つ法則を見つけたのは、主語の後には、ほぼ必ず読点が入る。主語を明確にしたいのか。
ただ、「十両編成の前面~」の文は、主語であろう「ヘッドマークが」の後に読点がない。
そういえば、小学校では、主語の後に読点を入れるように習った記憶はある。実際には、主語が短く明確な場合は、読点を入れないほうが一般的。学校教育では、その辺りどうなのかと、光村図書出版「国語 4 上巻 かがやき」の「白いぼうし(作・あまんきみこ)」より引用。※原著は「車のいろは空のいろ 白いぼうし」。2012年10月29日の関連記事。
「これは、レモンのにおいですか。」など、主語が短くても読点がある文もあるが、
「夏がいきなり始まったような暑い日です。」「おや、車道のあんなすぐそばに、小さなぼうしが落ちているぞ。」「松井さんは車を止めて、考え考え、まどの外を見ました。」と、主語の長短に関わらず、読点がない文もある。
小学校から読点必須ではなかったのか。低学年辺りで厳密な先生だと、読点がないと注意される場合はありそうだけど。
「これは、レモンのにおいですか。」など、主語が短くても読点がある文もあるが、
「夏がいきなり始まったような暑い日です。」「おや、車道のあんなすぐそばに、小さなぼうしが落ちているぞ。」「松井さんは車を止めて、考え考え、まどの外を見ました。」と、主語の長短に関わらず、読点がない文もある。
小学校から読点必須ではなかったのか。低学年辺りで厳密な先生だと、読点がないと注意される場合はありそうだけど。
西村氏はどういう意図で、こんなに読点が多いのか。
分かりやすさだとか、スピード感の演出だとかいう声もネット上にはあるが、生前のご本人の見解などはなく、推測の域を出ない。
作家それぞれの個性のひとつではあるにしても、出版社の編集者たちが、これは行き過ぎではないかと、指摘をしなかったのかというのも、不思議【8日補足・指摘したものの、西村氏に拒否されたのかもしれないが】。
ちなみに、世代が原因とは言えない理由として、西村氏と同世代でも、読点が適切で違和感なく読むことができる作家もたくさんいる。
鉄道関係では、宮脇俊三氏(1926~2003)や種村直樹氏(1936~2014)は、とても読みやすい。種村氏も言い回しは独特だが、文章はきれい。ただし、両氏は編集者や新聞記者の経歴がある。
さらに、東海林さだお氏(1937~)などは、読点が少ない。改行は多めで、ネットの文章に近いものがあると思う。
西村京太郎氏の批判になってしまって、重ね重ね申し訳ないけれど、広く知られた有名作家が、このような文章を書くということに、ある種のショックを受けた。
文章は他人に何かを伝えるためのものだから、読む人に分かってもらいやすい文であるべき。日本語の基本に忠実な文章は、より多くの人に理解してもらえる文章であるはず。基本から逸脱した文を、むやみに書く必要はない【9日補足・時と場合によっては、逸脱してもいいとは思うけれど。】。
ひと様はともかく、当ブログでは、これからもそんな文章を心がけていくつもりです。